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日本人の起源(縄文・弥生・大和)
377372 海のシルクロードを牛耳っていた“対馬縄文人”
 
太刀川省治 ( 62 大阪 建築士 ) 22/05/13 PM11 【印刷用へ
九州北部から出て、東洋の海路を通じた交易を牛耳っていた阿曇氏という氏族がある。『古事記』『日本書紀』にも登場する豪族でワタツミの神を信奉する集団であった。


和樂web 2022.01.08記事
縄文時代はグローバルな時代だった!?数ヶ国語堪能だったハイスペ人材、対馬縄文人とは
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〜前略〜

縄文時代のグローバル社会を支えたのは対馬縄文人だ

ワタツミを祭神とする社格の高い神社が多く残っているのが、国境の島として知られる長崎の対馬だ。

朝鮮半島に現存する最古の歴史書である『三国史記(さんごくしき)』にも示されるように、朝鮮半島と九州の中間に位置する対馬は古代交易の中継地点として栄えていた。漢委奴国王の金印が運ばれた経緯として、中国から対馬を経由し、その後阿曇氏の拠点である志賀島に持ち込まれたというルートが浮かび上がってくる。

ここで、縄文時代に生み出された最高傑作である縄文土器について考えるとしよう。縄の文様や爪で引っかいたような模様を特徴とした土器をイメージする人は多いだろうが、関東の縄文文化の影響を受けて根付いたイメージに過ぎないと筆者は思うのだ。一言に縄文文化と言っても、日本全国で一様であったとは言い難い。少なくとも九州の縄文時代前期の土器は、朝鮮半島の影響を強く受けたものとして考えられてきた。

その他にも、外洋性漁撈(ぎょろう)向けに作られた大きな釣針にも朝鮮半島のものとの類似性が確認される。よって、九州の縄文文化は朝鮮半島との少なからぬ交流を経て発展したものと考えることができる。


日本列島の平定に貢献した対馬縄文人

そこで浮上するのが、朝鮮、九州間における文化の橋渡し的存在としての対馬の縄文人だ。その存在は対馬における縄文時代の遺跡から発掘される骨製品や土器の製法や形が朝鮮半島のものと共通していること、また九州で作られたと思われる黒曜石の石器が対馬の遺跡から出土していることからも裏付けられる。こうした考古学的知見を踏まえ、鄭惠遠氏は対馬は古代の多民族の交易中継地点であったと結論づけている。

縄文時代の対馬が交易の中継地として機能していただろうということは、国内外の数々の歴史書によっても裏付けられる。ここで、対馬の地名に関して考えるとしよう。歴史的に最も古い表記は、中国の三国時代に書かれた歴史書である『三国志』における「對馬國」。その後に編纂された『隋書』では「都斯麻國」となっている。ちなみに、日本で初めて対馬が登場したのは『古事記』であり、その表記は「津嶋」となっている。

歴史書に初めて登場した「對馬國」という地名は、対馬が朝鮮半島の馬韓(ばかん/朝鮮半島南部に居住していた部族集団である三韓のひとつ)の前にあったことに由来する。また、『古事記』に登場する「津嶋」という地名を考えてみても、「津」の「嶋」、すなわち港の島であり、そこには海上の中継地としてのニュアンスが含まれる。

阿曇氏の拠点が中部地方に置かれていた点を踏まえると、大陸からの技術は中継地点である対馬を経て、九州、さらに東方の地域に広まり、縄文文化が形成されていった。民族の知恵の結集によって世界文明が勃興したように、近隣の他民族との接点があったからこそ縄文文化が醸成されたのではないだろうか。

ちなみに、日本列島の平定に貢献したのは対馬縄文人の阿曇氏であった。大和政権は阿曇氏の伝手で朝鮮半島に進出し、大陸からの鉄器や青銅器などの供給源を確保したのだ。歴史教科書の記述に従えば、縄文時代と弥生時代はまるで別の次元の時代として捉えがちであるが、対馬縄文人である阿曇氏の存在を考慮することによって、縄文時代から弥生時代への移行が点と線で結ばれるようだ。


生活を支えるために、海を越えて買い物に出かけたりも

そもそも、縄文時代には国境という概念が存在していなかった。したがって、対馬と、対馬に最も近い朝鮮半島との間では行き来が自由に行われており、また互いの文化を共有していたと考えるのが妥当であろう。

『魏志倭人伝』の記載にもあるように、対馬は田畑の耕作に適さず、生活の足しとしての食料が供給できない状況にあった。そこで、対馬近海で漁業を展開するとともに、海を渡って朝鮮半島や九州へ出向いては海産物と物々交換をし、米をはじめ生活に必要な物資などを手に入れていた。田畑の少ない対馬に居住する縄文人にとって、生活していくうえで必要な手段であったのだ。

朝鮮半島、対馬間を行き来していたのは対馬縄文人だけではない。朝鮮半島の人もまた対馬に出入りしていた。しかしながら、対馬の地形の関係上、朝鮮半島の人がそこに定住することは少なかった。それに対し、朝鮮半島には多くの民族や部族が移住し、その移住者が支配者となることもあった。そして、対馬縄文人は朝鮮半島への移住組に含まれた。

日本の天皇家は百済の王家の末裔だとか言われてるが、天皇家のルーツにも関わるその百済の王家の正体とは、実は遥か昔に朝鮮半島に渡った対馬縄文人だったのかもしれない。

少なくとも朝鮮半島に新羅統一国家、日本側に大和朝廷という“クニ”が誕生するまでは、互いに行き来があり、民族は異なれど平穏な日常の中で互いに仲睦まじい関係を築いていたと言える。明治政府下で民族意識の統一を図ることを目的に標準語政策がとられたことを踏まえても、争いの根本的な原因は、異民族間ではなく、民族の統一という理念をもって誕生した“クニ”が絡んだ利権にあるのではないだろうか。


多くの言語を使いこなし、アジアの文化交流に寄与

紀元前3世紀までの対馬は、ある時は朝鮮半島と九州との交易の中継地であり、またある時は東南アジア系や東北アジア系との交流の地であった。さまざまな民族が出入りしていた点においては幕末の横浜港と同じ状況にあった。

実際のところ、対馬の遺跡からは馬韓や弁韓(べんかん)、九州地方との交易を示す遺物が多数出土している。このことから、対馬縄文人には朝鮮半島や九州地方の言葉を理解する能力があったと解釈されている。なお、言葉の伝達に対馬縄文人は関与しておらず、古墳時代以降の日本と朝鮮半島間の交流を通じて日本に伝わったものとされている。

〜後略〜
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