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若者が実感できる『旧観念』 |
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西知子 ( 28 京都 秘書 ) |
03/02/12 PM09 【】 |
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>これらの旧観念群はいずれも私権の強制圧力によって生み出される醜い現実が不動の=変えることの出来ないものであった時代に生み出されたものです。(或いはその認識パラダイムの尾を引きずったものです。)
だからこそその時代においては、現実を否定し頭の中だけで倒錯充足するor現実の醜い部分を捨象し美化するor傍観者になるしかなかったという、必然性を持っています。
若者にとって、『愛』も『個人』も『人権』も、普段めったに使わない、既に実感の伴わない言葉で、それを例に話してみても、頭で考えるばかりで何がなんだか分からなくなります。
そこで私がよく例に出すのが、「人それぞれ」と「誰にでもいいところはある」です。
「“人それぞれ”って言ったり言われたりしたら、そこで壁を感じるでしょ?こっから先はお互い突っ込むのはやめましょうっていう諦めを感じるでしょ?それってすっごく寂しいでしょ?」
「“誰にも(何にでも)いいところはあるよね”って言葉もそうで、それって、具体的(現実的)にいいところが見出せない苦しまぎれでとか、もうそれと向き合うのをやめたときにしか使わないでしょ?」
「それがつまり、現実に背を向けて、その状態をもっともらしく正当化した旧観念。こういう言葉を使った時点で、思考停止してしまう構造を持つ。頭で考えるとよく分からないかもしれないけど、そういう風に、実際どういう時にどういう状態で使うかを考えれば、誰でもその誤魔化しは見抜けるはず。だから、ものを考えるときに、旧観念が無用どころか邪魔なだけというのも、言われてみればごく当たり前のことのはず。」
この流れで話すと反応もよく、旧観念の構造を実感を持って捉えられるようで、自分で自分の思考停止に気付くことが出来るようになると思いました。 |
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