他者否定の自我を温存している限り、肯定視と受容を前提とした男女の共認充足は得られません。この欠乏感(共認不全)は潜在的・恒常的に意識の底部に溜まりつづけます。それでも何とか欠乏感を埋めようと、頭の中で本源風の充足感を追い求めつづけ、編み出したのが「恋愛」という価値観念です。
確かに恋愛感情の頂点では、「あなたにだけは心を開きだせる、そしてすべてを受け容れてもらえる」という安心感・充足感に近いものが得られるのかもしれません。しかしここには大きなゴマカシがあります。
まず、他者否定(排他)を前提にしているため「あなただけ」という特別な条件をつけます。そして「心を開く」といっても自我が基盤にある限りは、自分中心の期待と要求を開きだせる、開きだしても受け入れてくれそう、という程度の中身にしかなりません。
相手もまた、これで女が独占できるのならとりあえず何でも受け入れましょう、といった按配で「心を開く」⇒「自我の晒し合い・容認」という本源性とは程遠い私的充足(の取引)関係が成立します。これが「恋愛」によって得られる充足(幸福感)の正体です。
自我のプラス・マイナス判断に本源風な味付けを加えて、うまいこと「恋愛」という価値観念をつくり上げてはいますが、その成り立ちが他者否定を前提にしている限り根本的な共認不全はまったく解消されません。
「恋愛」の実体は自我充足のための取引関係でしかないこと、「恋愛」という価値観念では現在の閉塞感(共認不全)をごまかしきれないことに、すでに多くの人が気づき始めているのだと思います。
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