未熟ながら、私が考える、現実の知と科学について書いてみたいと思います。
何度か書きましたが、私は、近代の認識フレームの中で「科学的」であることを重要だとは考えていません。現実を突破するために有用な知の体系こそが重要と考えています(有用かどうかは、実際に現実において試されます。もちろんそれまでに十分な検討をした上で現実にあたる必要がありますが)。
現在(近代以来)のパラダイムの上で「科学的である」ということは、大きな偏りを含んでいると思っています。誤解されると困るのでお断りしておきますが、近代科学の成果を全面的に否定するわけではありません。ある局面では、非常に有用で役に立つのですが、重要な部分を切り捨てた、一面的で不完全な認識体系だと考えているわけです。もちろん、完全な認識体系などあるはずがなく、現実を突破するのに“より有用な認識体系”、あるいは想像の中にしかない「客観的世界」に“より近い認識体系”があるに過ぎないのですが。
近代以来の科学は、「イデオロギーを排して客観的に」を標榜しつつ、実は偏った近代思想の影響下にどっぷりと浸かって存在しています(近代思想の問題性については、実現論に詳しいので省略します)。要するに、近代という時代を背景とした偏った考え方の上で構築された体系が現在の科学の認識体系です(3971野田さんの投稿にも詳しくあります)。
ところが私たちは、「科学的に証明された」ということに対して、ある種の絶対性を感じてしまうようです(科学を過信しているとでも言いましょうか)。近代科学の手法である程度明らかにできるのは、現象のごく一面に過ぎません。その切り取られた一部のみで成り立つことを一般法則としてしまうことによって判断を誤ることは、往々にしてあり得ることです。「科学的」=「正しい」という図式を、無意識に盲信しているというのは問題でしょう。確証バイアスや選択的思考が現在の科学にも少なからず蔓延っており、たまたまそれが学者の間で共認されているから問題視されないだけである、ということを再認識すべきだと思います。
しかし、そのパラダイム(思考フレーム、証明の方法論や基準そのもの)を絶対視する一部の人々は、自分たちが最も科学的、すなわち客観的であるという思い込みに基づき、他者を「科学的でない」「トンデモ」と批判するわけです(他のbbsで経験したことですが、どうもこれを行う人は揶揄や嘲笑を込めて見下しながらも、自分の方が上だという自我充足と、正義をなしているという高揚感をともなうのが特徴のようです)。このあたりは、トマス・クーンの「科学革命の構造」にも書いていますね。
近代科学は、利便性や自然を改造するという一面的な意味で有効でした。しかしそれが浅はかだったということは、環境問題をはじめとする種々の問題で露呈しています。私は、近代思想の亡霊から自由になり、その総括の上に新たな知の体系をつくっていくということが、困難ではありますが、今後不可欠になっていくと思います。 |
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