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我思う、故に我あり |
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北村浩司 ( 壮年 滋賀 広報 ) |
01/04/17 PM06 【】 |
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という言葉は個人主義思想の礎として、あまりにも有名な言葉である。
ところで、この「全てを疑った上で最後に残るのは”思惟する存在である自己”である」という到達点は、あまりにも過激である。その現実否定の過激なスタンスは、これが支配観念として人々の上に君臨している現状を思えば、その過激性=劇薬性という一点で驚嘆に値する。
しかしこの劇薬の問題点は全ての現実の存在を「懐疑する」≒「捨象」した果てに、全ての思考の立脚点を、思惟する自己の観念に置いた点である。
私は観念機能とはあくまで現実を対象化するために存在すると考える。生物は全て現実を対象化して生きている。そして生物学上で人類が進化したといえる最大の武器はこの観念機能による現実の対象化の機能であろう。それは人類の生命線といっても良い。(言うまでも無く自然科学は基本的に現実対象化のベクトル上にある)
その観念を現実から180度「転倒」させ、思惟=現実を捨象した自己の頭の中に立脚点をおいたこと。これは構造的にはかつての神の位置に個人を措定し直したに過ぎない事を意味する。
これこそが個人主義哲学の最大のペテンだと私は考える。 |
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