> あるテレビ番組で見たのだが、日本語には女性の性器の呼び方にはいろいろなものがあり、一つに特定されていないのだそうだ。そしてその種類は世界の言語の中から見ても一番多いのだそうです。 (2753 「ホンネ」と「タテマエ」 佐藤ともひろ さん)
投稿の趣旨とは全然違うのですが、このお話は極めておもしろいことだと思いました。
少し前に、イヌイットは何千種類もの雪を識別するために「白色」の認識力が優れているという話がありました。それは、それぞれの外圧(自然状況)に応じて得たモノだとも言えますし、得なければ生きていけない状況であったとも言うことができます。つまりは、雪(白色)と言うモノがどれだけ日常生活に関わっていたかを伺い知ることができるのです。(その前提条件として、私たちは圧力さえ働けばそれくらいの力を発揮できる=物事を対象化できる、認識できる、ということも言えるのでしょう)
雪への認識力は、そのまま言語化されます。つまり、「白色の名前」という形に反映されます。従ってここで考えられるのは、日常に関わりの深いモノほど認識能力が上がり、対象化しやすくなり、その現れは言語として表面化される(言語が豊富となる)のではないかということです。
このような切り口で考えると、その外圧(自然状況)や共認の差異≒地域差こそ「文化」であると捉えることができるでしょう。佐藤さんの上記の意見はその例に当てはまるのではないでしょうか。つまり、女性器の呼び方が多いとは、誤魔化しのためだけではなく、その呼び方の数にふさわしいくらいに女性器が「対象化」されていた=日常化していた「文化」を現していると考えることができるのです。(今の私たちには想像もできませんが)
文献でも、日本がそのような性的に開放された土壌であるということを裏付ける事象がいくつも記されています。ここの掲示板でも見られるように、「夜這いの風習」などがその良い例ではないでしょうか。
では、性はいつから現在に見られるような「秘め事」になってしまったのでしょうか。しかもそれは、隠され、表に出さないことが「良いこと」という価値判断付きになっています。その原因分析は今回は割愛しますが、そのような隠された性は、まさに現代社会に様々な影を落としていると考えられます。
隠され、限定され、規制された性は、幻想的なものに仕立て上げられ、現実との落差を大きくします。その結果がセクハラ・セックスレス・レイプ・イけない女が増えた・性のバーチャル化などの原因と考えることもできるのです。
それを一つの進化(当然の結果)と見るか、過程と見るか、その解釈は様々ではあります。しかしながら、明らかに私たちの「性機能」が低下していることは事実としてあげてもよいのではないでしょうか。少なくとも私たちはその呼び方に相応する認識力はないのですから。
たくさんの名前(呼び方)を持つ。表現が豊富。言語が豊富。
個人的に、それはとても素敵なことだと思うのです。
それは文化であり、伝統であり、知恵であり、生きた力です。
それを失って私たちはどこにいくのでしょう。
個性が声高に叫ばれる中、世界は均一になっていく
しかもお互いの能力を削り合って
私はそんな気がしてなりません。 |
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