実現論に書かれた「自我」は一般的に言われる「自我」とは少し違う。
辞書を繙くと、こう書いてある。
じが 【自我】 〔英 self; (ラテン) ego〕
(1)〔哲〕 自分。自己。意識や行為をつかさどる主体としての私。対象 (非我)・他者(他我)から区別されるが、他我もまた一個の自我であ る。人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座と なる。⇔非我
(2)〔心〕
(ア)自分自身に関する主体としての意識の総体。自我意識。
(イ)精神分析で、イド・超自我とともに人格を構成する心的領域。イド と外界の現実や超自我との間で現実原則に従って調整をはかるもの。エゴ。
【 大辞林第二版 】
上の「自我」の定義だが、これはフロイトによって定義されたものであり、通常自我というと、この「フロイト自我」を指す。 ところが、この定義が極めて怪しい。
「自分自身に関する主体としての意識の総体」こんなものが本当に存在するのだろうか?
フロイトの弟子、ジャック・ラカンが彼の著「エクリ」の中で次のように述べている
「自我とは主体の自律的、統合的機能ではなく、そのような機能についての妄想でしかない。 一連の自己愛的な(他者との)同一化の結果にすぎない自我は、想像でつくりあげた、自己を理想化する、主体の自己疎外の鏡像的構造である。」
意識は固有不変の統合された何かではなく、時と場所によって変わるものであり、もし自分で自律的、統合的な「自我」というものを感じているのだとしても、それは妄想であるというのがラカンによる自我である。
すなわち、自己認識のための意識の統合体としての「自我」(フロイト自我)など存在し得ないということである。 |
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