◆単に遊び仲間であるという人間関係はあり得なかった
たとえば、認識仲間と遊び仲間という区分があったとして、原始人にとっては、単に遊び仲間であるという人間関係はあり得なかったんだと思うんです。
自分の集団の中にいる限り、生きるか死ぬかという問題は、必然的に共有していた。だから、あらゆる事象、現実、つまり認識を共有するのは当然だったんじゃないか。
ところが、なぜか、別にお互いの生存の確保とは無関係な人間関係が爆発的に増えた。特に近代以降は、この傾向が加速されたようです。
一応名前も顔も知っている。一緒に遊んだこともある。でも、別に当てにしているわけではない。むしろ、当てにしちゃいけない。自分のことは自分でやるんだ・・・。
こういう意識があるんだと思います。
◆認識という紐帯→ 人間関係の本質、中身を取り戻すこと
それでは、なぜ、こういう関係が常態化したかなんですが、大まかには、生きるための課題が個人のレベルに分解・矮小化されてしまい、それでも、誰かと会って気を紛らわしたいから、そのための関係は残ってきた。
じゃあ、その課題のスケールをどのように復元すればいいのかなんですが、いきなり一人一人がバラバラに大きな事柄に取り組んでも、うまくいかなかった。(このあたりが旧来の運動論の限界だったのかもしれません。)
評論家や学者が、社会が危ない、日本が滅びると何度言っても、何冊本を書いても、誰も耳を傾けない。関係世界の中で、そういう意識が共有されていかない限り、考えることは、ふつうの人間はしない、と。
そこで、まず、認識を共有する土台となる関係を作って、その場の中で考える、という基礎構造が、現在の議論の現実基盤じゃないでしょうか。
逆に言えば、認識を共有する仲間を増やすというのは、人間関係の本質というか、中身を取り戻すことでもあるのかもしれないですね。
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