>100%相手発でも全く問題は無い
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というか、認識も仕事も必要なのは相手なので、100%相手発であることが必須です。
逆に言えば、誰とも関わらない、誰のためにも役立たないという価値観やそれが許されるような過保護環境ならば100%自分発で良いわけです。しかしそれは『どこにいようとそこは社会である』(102370)という認識が発表された段階でアウト!密室家庭の自分の個室にいても不可能になりました。
>「集団に入った」んだと思い込んだままだと、そこから脱しよう(逃げよう)と引きこもったりしてしまうが、「社会に出た」んだと捉えられれば、世界は全く違ってくる。
ここから追加的な考察なのですが、
@「相手」とは、状況を丸ごと背負った相手なので、相手を状況ごと知るときに「自分」は邪魔でしかない。つまり同化するのに専念するしかない。
A「相手」は普通、一人ではないので、認識も仕事も「相手」のみでは不足している。ゆえに@はより複雑になるので「自分」は邪魔でしかない。
B「相手」の課題と「自分」の認識をするあわせるときに、すりあわせるのは相手の意識でありつまり課題である。課題に対して課題を鮮明にして(A)、協力して答えを出そう(B)、それは自分の課題でもありみんなの課題でもある(C)。A、B、Cのどの過程でも「自分」は参加するだけで、「自分」の中にすべての課題と答えを持っている人はいない。
Cそもそも「課題」「参加」「答えを出していく」過程では「相手」は逃げてしまうかもしれない。しかし、「課題」は残り「記憶」は残る。残って行くのは自意識ではなく、「課題」と「記憶」である。逆に言えば、だからこそ再参加することも出来る。
もし、相手が「自分意識」のみで参加した場合、即自観念か逃避によって課題は流産する。しかし、相手が「相手発」で参加した場合には、自分だけが分っても逃げても、相手は分らないし逃げられないので、課題は消滅しない。
よって、うつや引きこもり、あるいは通常の仕事や交友の場合に、少しでも商売っ気、継続性を求めるならば⇒活力低下を防ぎ活力上昇を望むならば、「100%相手発」は不可欠な条件である。と想う。 |
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