平野さん今晩は。三内丸山の大集団の起源についての投稿を興味深く見ております。
北村さんが16349で述べているように巨大集落三内丸山の周辺には,衛星集落のような分散をする縄文時代前記から中期にかけて同時代遺跡が14個所見つかっています。
こうした衛星集落を周囲に配した大集落はこの三内丸山だけではありません。
陸奥湾沿岸には,このような,中心集落の周りに衛星集落を周囲に配したような集落遺跡群が多く見られます。また対岸の北海道道南部にも,同様の集落群が見つかっています。
このような特徴的集落構造をもつ,東北北部から北海道南部に広がるエリアで,縄文時代前記から中期にかけての遺跡からは,共通特徴的な土器として円筒土器が出土し「円筒土器文化圏」と呼ぶ学者もいるようです。
土器の様式だけで,その出自を同一部族,同一文化と呼ぶには若干証拠不十分な気もしますが,その文物の交流の跡からして,その発生は・・
>もとは同一部族から枝分かれして、隣接して縄張りを確保していた氏族の間で、代を経るにつれ遠心力のほうが強まるケースです。(平野さん18139)
というのは,うなずけるものではないかと考えます。
>その特徴については「拠点集落にはシンボリックな巨大構造物や集団墓地大規模な食糧貯蔵施設、集会場又は共同作業場等を持つ逆に衛星的な小規模集落にはそれがみられない,葬送儀礼などの種々の『祭り』などは所属する中心集落で共同で行っていたとみられる。(文末のHPより引用)
また中心集落と,衛星集落との関係が上記のようなものであったとすれば,多段階編成をもつ連合体という北村さん(16349)の説は,的を得ているでしょうし,そこで行なわれていた『祭り』は,連合体を統合する為の『祭紀』であったと考えます。
参考:三内丸山遺跡 URL→リンク |
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